足跡だらけの白昼夢
怪我も足枷もとっくに無かった事にしたのに、それでも未だに私を抱いたままカツン、カツン。長い脚でゆったりと歩くお兄さんは全く焦る事無く、けれど迷いなく足場の悪い道を進んでいく。けれど進む度に大きくなっていく・・・まるで大砲でも打っているような騒音が大きくなってきた事に何だろうって思っていたけど。ようやく見えたこの山道の果て。小高い崖まで出た時、その音の正体がまさにそれだった事に瞬いた。

崖の下の海の上。黄色い潜水艦が、海沿いに聳えるスラム街でも一際大きい建物から首を擡げた大砲に砲撃されていた。その潜水艦は、今まさに私を抱いてるお兄さんの船の筈で。潜水艦の方も応戦はしてるけど、その潜水艦を砲撃してる建物は確か、あの人間屋のものだった事に内心首を傾げる。それに「何でお兄さんの船が襲われてるの?」聞けば、「人のもんに手ェ出してくれた礼をしただけだ」って、フフッ、って笑いと一緒に返された。

でも甲板にいたあの時の・・・えーと、確かペンギンちゃんが崖の上の私達・・・っていうか、お兄さんに気付いて「船長!急いで下さい!!」って声を上げた時。いよいよ砲弾が潜水艦を直撃するコースに乗ったそれを見て、お兄さんが「たく、煩ェ虫だな。お前に集る蠅共は。」なんて、何処か愉快そうな音を乗せた声で告げた。後、

「ROOM」

その声と、そして不思議な音と一緒に薄く色付いた円が展開された。その円はお兄さんを中心に、崖の下の潜水艦までを覆うように広がって、そうしてお兄さんが「シャンブルズ」。そう、左手を掲げて囁いた刹那。真っ直ぐに潜水艦へ迫り、そうしていよいよ円の中まで入って来た砲弾が、突如円の外へパッと位置を入れ替えた。所か、さっきまで船へ真っ直ぐに向かっていた筈のその砲弾は、その向かう先をそれを撃ち込んだ筈の人間屋の建物の方へ向かって行った。

それに吃驚して瞬いてる私にお兄さんはまた笑ってから。けれど私の身体を、今度はこの間みたいに落とすんじゃなくて、ゆっくりと。そう、ゆっくりと、優しく足から地面に下ろしてくれた。それにお兄さんを見上げようとしたその横をお兄さんはするりと横切って、そうしてこのとても低いとは言えない崖の上から躊躇なく自身の船の甲板に飛び降りた。そうして信じられないくらい軽やかにそこに着地したお兄さんは、私を振り返って、言った。

「降りて来い。」

未だ振りやまない砲弾に大きく振れる船体に、けれどお兄さんは一切動じる事も、揺らぐ事すらなく私の事を見つめてる。さっきの良く分からないお兄さんの能力があれば、こんな砲弾の嵐なんて簡単に無くせる筈なのに。お兄さんはあの1発にしかその力を使わずに、他の砲弾は全て船員に任せて其処に立っているだけ。

砲弾を撃ち、撃ち込まれる雄叫びのような轟音。荒れる海のうねり。船員の怒号。なのに、お兄さんの周りだけが時間の止まった一切の無音であるみたいな錯覚すら覚える。・・・分かってる。当然それは錯覚で、時間なんて止まってないし、音は耳が痛い程に響いて来る。なのに、「お前が選ぶんだ、エミ。」

「さっきも言ったな。お前は、俺のもんだ。だからお前の意志がねぇなら仕方ねえ。お前をバラして箱に詰めて連れていく所だが、意志があるならその必要はねぇだろ。」

周りの騒音に、ともすれば掻き消えそうなものなのに。けれど、お兄さんの声はほんの少しも掠れる事無くここまで届く。お兄さんは声を張り上げているわけじゃないのに。拡声器みたいな道具を使っているわけじゃないのに。私が、大嘘憑きを使った訳でも、ないのに。

「降りて来い。今度は、自分の意志でだ。」
「でも私は、」

私は、・・・その後に続く言葉は、口に出した癖に声にはならなかった。何が言いたいのか、自分でもまとめ切れてなかった。
でも私は、何だろう。私は、負け犬だから?私は、役立たずだから?私は、無気力の面倒臭がりだから?私は、只の穀潰しだから?私は、・・・過負荷だから?そんな今更な事、別に引け目を感じてる訳じゃないのに。なのにどうして私、それを理由に二の足を踏んでるんだろう。そんな事を理由に、どうして・・・
自分でもよく分かってない戸惑いに戸惑ってる私に、だけどお兄さんは迷わない。何の躊躇もなく、言う。

「怪我はさせねぇ。」
「絶対に受け止めてやる。」
「必ず守る。」

「だから信じろ。」


「俺を信じろ。」


馬鹿みたいな、言葉だった。今までの私の人生を全て否定するような、そんな言葉だった。
いつだって傷と共に生きて、害されて来て。迫害されて阻害されて愚弄されて、そうして眼を逸らされて切り捨てられて来て。守るとか、信じるとか、信じろとか。そんな嘘すら吐いてもらえない人生だったのに、それを全部否定するような。そんな、言葉。

そんな言葉を、よりにもよって私なんかに向けられてるって事が信じられなくて、その事実に馬鹿みたいに戸惑って。1歩。前に踏み出そうとして、だけど直ぐに躊躇った。行き場を失った足をどうしようかとほんの些細な間に彷徨わせて、気持ち後ろに下げた所で地面の感触を確かめるように其処に付く。そんな、時。

す、と。

無言の侭、甲板の上から私に向けて手の平が差し出された。絶対に届く事の無い離れた距離で、こんなに気持ち悪い私から、少しも視線を逸らす事無く向けられる強い視線に、ぎゅっと唇を噛んだ。あぁ、嫌だな。また、いつも通り。情けない、格好悪い。声を出そうとそこを震わせるのに、出てくるのは本当にか細くて震えた小さいものだった。「わ、」

「わたし・・・そ、掃除、できないよ?」
「知ってる。」
「洗濯だって、全然・・したことないし・・・」
「らしいな。」
「お料理だって、殆ど作った事、ない。」
「それも聞いた。」
「体力も根性もやる気だって・・、」
「分かってる。」
「それに、戦うのだって、絶対、勝てないし・・・そ、それでも、」
「それでも」

お兄さんは、私のこの小さい声をけれど一つも取りこぼす事無く拾い上げて、そのどれもにハッキリと返事をくれた。
私の言葉を遮って。見据えられた目は、鋭くて。ともすれば睨んでいるようにすら見える、その、こんな私にすらも分かる程の意志の込められた、目。あんな目を、見た事が無かった。いつも私に向けられる目は腐り果てた生ごみやウジ虫でも見るような眼で、いつも私に向けられる感情は嫌悪感やあるいは恐怖心で。こんな、こんな、求める、みたいな。こんな目、見た事が、なかった。

勘違いだ。こんな感情を向けられるなんて、あり得ない。そんな筈ない。こんな過負荷な私に向けられるような感情じゃない。嘘だ。そう、勘違いじゃないなら、嘘、だ。だって、こんな、お前が欲しい。なんて。ふるり。指先が震えて、けれど、それでもまだ迷う優柔不断などうしようもない私に、刹那。届く、声。

「それでもお前だ!降りて来い!!」

脳髄に直接響くような、強い声。気付けば私の身体は空を飛んでいた。
投げかけられたのは只の言葉だったのに。何の強制力もない、只の、音だったのに。なのにまるで、そう。まるで、心髄が弾けるような。そんな、感覚。なんだろう・・・よく、分からないけど。私の、大して役に立たない第六感が脳髄に訴えかける。"この人だ"。何が『この人』、なのか、よく分からないけど。だけど、そう、強く、訴えて来た。痛いほど、強く、強く。

そうしてあの高さから落ちたこの身体を、けれどお兄さんは本当に受け止めてくれた。固く固く強く、抱きしめて、くれて。身じろぎも出来ない程に、離さないでくれて。こんな、こんな気持ち悪い私の事なんて、触るのだって嫌な筈なのに。

恐る恐る見上げれば、だけど向けられた目は、最初みたいな嫌悪感なんて、全然感じてないみたいな、平気な顔で。フ、と。私なんかには、考えられない程に優しく微笑まれて。さらり、耳から後頭部までの髪を撫ぜて。そうして耳元で、囁かれる。「よく飛んだ」って。そう、褒める、みたいな。声で。
そんな私を一層強く抱きこんだお兄さんが、声を張る。

「いいぞ、出せ!!」






さっきまで心臓を揺すぶる程強く響いていた大砲やらなんやらの音なんて嘘みたいに静かな海の上。ただ波の音と、時折聞こえるカモメか何かの鳥の声。ゆらゆら。ゆりかごみたいに穏やかに揺れる、黄色い、潜水艦の甲板の上。さらり。風が髪を浚って、頬を撫ぜる。すん。と。匂いを嗅げば、潮の、香り。

耳元に感じる今まで1度だって触れた事の無い体温と、そしてトクトクと鳴る心臓の音。腰と、そして髪に乗せられた大きい手。そろそろ顔を上げてみれば、見上げてなんかいない。ただ、正面を見ているだけなのに、水平線上に限りなく広大な、何処までも続く青い青い、空と海。あの島からだって見えた、何も変わらない筈のその光景が。どうしてか、色付いて見える。全く、『らしく』ない。馬鹿みたいだ。こんな錯覚にドキドキしてるなんて、どうかしてる。

思いながら、ぽつり。「・・・・・・ばかだなあ、」と、呟いた。そうすれば上から「あァ?」って、何だか不快って言うよりは、訳が分からないって言うような声調の声が届いて。またぽつりと返す。「マイナスは、惚れっぽいんだよ。」

「そんなに優しくされたら、好きになっちゃうよ。」

目元が熱くなって、じわりと視界が滲む。それを見られたく無くて、気付かれたく無くて。お兄さんの腕の中、小さく身動ぐ。そうしてお兄さんの首筋に顔を埋もらせて隠して。だけどお兄さんのこの見た目よりも広い肩に乗せた額から、黄色いパーカーをぎゅっと握った指先から。そして何より、この震える声から、全部伝わっていそうで。「あぁ・・・」

「願ったりだな。」

ぼろり。いよいよ溢れだした、もう久しく覚えていなかった、この感覚。悪意も惰性もまるでなく、まるで子供をあやすようにぽんぽんと叩かれる背中。このあまりにも・・・そう。あまりにも気持ち悪い、居心地の悪い、この満たされ過ぎた優しい体温に。いいよね。この一瞬だけなら、いいよね。と、いつも通りに自分に甘い思考が囁いた。いいよね、この一瞬だけ。この一瞬だけ夢を見たら、それでもう全部終わりでも良いから。だから、

「ねぇ、お兄さん。お兄さんの名前、教えてよ。」

問えば、一瞬の間。けれど直ぐに「フ、」と、嫌に艶やかな息の抜ける笑い声。そうして思い至るように「そう言えばまだ自己紹介もしてなかったな」って、可笑しそうに漏らされた声。そうしてまた静かに笑ったその人は、ぽん。私の背中を1度だけ小さく叩いてから、言う。

「ローだ。お前の船長の名は、トラファルガー・ロー。それで?俺の可愛いクルーの名前はなんて言うんだ?」

ローなんて、それはまた大層な名前だね、ふてぶてしいお兄さんにはぴったりだよ、なんて。そんな嫌味を、普段の私なら返した筈なのに。それを告げたお兄さんの声があんまりにも優しいから。まるで、只の、何の変哲もない、只の小さい子供に向けるように言うから。だから、

・・・そう、だから。その大層に偉そうな名前は私の胸にじわり、じわりと、まるで溶け込むように広がった。奇妙なこの、気持ち悪い位の穏やかさ。こんなに気持ち悪いのに、込み上げてくるそれが抑えきれない。

思い通りにならなくても、負けても、勝てなくても、馬鹿でも、踏まれても蹴られても、悲しくても苦しくても貧しくても、痛くても辛くても弱くても、正しくなくても卑しくても。それでも、まるでそうある事が決定付けられているかのように、そう、当り前に、当然に。そんな時こそへらへら笑うのが過負荷(わたしたち)だけど。だけど、そうじゃない時、どんな顔をすればいいのか、どんな顔をするのか。そう言えば私は、知らなかった。だけど・・・それでも、

「私は、     

そんな負け犬(わたしたち)も、こんな逆境(しあわせ)の中でも笑う事が出来るんだって。そう、初めて、知った。
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