可もなく不可もなく毒もなく
職員室で先生に叱られ始めて、数分経った頃だった。「・・・見つけた。」と、突如後ろから聞こえた声にバッと振り返る。そこにいたのは、20代前半程の男の人だった。裾の長い着物に似た服。橙色の明るい、染色の色の見られない自然な髪。頬と鼻の頭に深緑色のペイントを施されたその顔は恐ろしい程整っていて、・・・けれどその表情はまるで溢れ出る感情を抑えているような、涙を堪えるような。そんな表情を真っ直ぐに向けられて、息を飲んでしまった。

「やっと・・・みつけた。」

震えてすらいるその声を、きっと笑顔になってしまう表情を無理矢理押さえるように取り繕って絞り出したような声だった。その人には「、?誰だ、君は。」と怪訝に問う先生の声すら聞こえていない様子で、更に「貴方だ」と。声にささやかな喜びを乗せて続けた彼に私が戸惑っている内に、さらにギョッとする事態が起こった。突然この人が私の直ぐ足元に膝をついて、「お探し申し上げました」と深く深く頭を下げて傅いたのだ。

「どうか私とおいで下さい。」
「え、・・えっ?!」

ざわ、と。職員室ないがざわめいた。目の前の先生はどういう事だ、とか、説明しろ、って言わんばかりの顔で私の事を睨んでくるし、周りにいる先生達は野次馬のように私達の事を興味深げに見つめている。だけどどういうことだって思ってるのも説明してほしいのも私の方だ。と。その彼はというと「なんだお前は、」とか「部外者は出て行きなさい」とか。ようやく口々に声を発し出した先生達に、背筋が凍る程の冷たい表情を作って見せた。

「アンタ達には関係ない。下がってよ。」

ギロリ、なんて。そんな表現じゃ生易しい程の眼光だった。それに気圧されて数歩下がった先生達を睨み据えてから、彼は1度私に向けてさっきまでの表情が夢だったんじゃないかって言う位優しくニコリと笑んだ。そうしてその直後、私に向けていた顔を床に向けて下げて、本格的に土下座のような格好を作って見せた。

「ゴゼンヲハナレズ、チュウセイヲチカウトセイヤクモウシアゲル。」

そうして言われた言葉に、固まった。・・・え、・・・え?なに、どういう事?と、そう戸惑っている私に、その人は顔を下げたまま「許す、と」と、そう言葉を発した。だけど意味が分からない、どういう事?その思いをそのまま「な、なに?なんなんですか・・・っ?」と吐き出せば、彼は僅かに語調を強めて「命が惜しくないの?許すって言って。」と、僅かに顔を私の方に上げて続けた。その言葉に、命が惜しくないの、という言葉に、びくりと震えた。何かよく分からないけど、言うだけでいいなら言っちゃえ。だって、怖い。

「ゆ、・・・ゆるす。」

言った、刹那の出来事だった。私の足元に傅いていたこの人が、その頭を更に低く低く下げて私の足に額を当てた。もう言葉も出なかった。周りからは呆れたような声、息、視線。完全に共犯者に向ける眼で見られて、もう泣きたくなってきた。時。・・・くら、と。よろける事は無かったけど、立ちくらみがした。何かが自分の中を駆け抜けて行って、それが一瞬目の前を真っ暗にした。それはほんの一瞬の事で、直ぐに平静に戻ったのだけれど。そんなそんな私を余所に、目の前の彼はす、と立ち上がった。直後、

『タイホ。』

びくり。突如響いた、何処か緊張を孕んだその"音"に、音源を探そうと周りを見渡した。だけど何処を探してもその音源は見つからず、だけどその音はまた響く。『追手が。尾けられていたようです。』・・・タイホ、と言ったそれは、もしかしたらこの人の名前なんだろうか、と。頭の片隅で考えたのは、現実逃避だったのかもしれない。その音に、彼がす、と眼を細めた。そうして彼が私を仰ぎ見てその右手を動かそうとした時、また音が響く。『タイホ、来ました。』

「失礼を。・・・此処は危ない、一緒に来て。」
「危ない、って・・・」ガッシャァアアアン!!

一瞬の、事だった。
何が起こったのか、分からなかった。確かに視界にはその現状が映し出されているのに、脳がそれを処理してくれなかった。ただ、耳を塞ぎたくなる程の轟音の後。カラ・・カシャンという、ささやかな音を音として認識した頃。その轟音から一拍置いた後に聞こえた悲鳴に、次いで鼻を突く様な生臭い異臭に、ハッと、状況が見えて、理解出来た。

さっき聞こえた轟音は、硝子の割れる音だった。あの時。突然校庭側に面している硝子が、なんの前触れも無く全て砕け散った。けれどその硝子は、まるで大量の水が吹き飛んでくるように、鋭利な光りを弾いて水平に外側からこの職員室の中に殺到して来たのだ。外側から押し付けられた強風に耐えきれなかったかの、ように。
そうして気付いた時には職員室内は硝子の破片が光を撒いたように散らばり、本、雑貨、机。あらゆるものは倒れ、飛び、散乱している。そして更に視線を周りにふらふらと泳がせれば、ある人は身体に硝子を突き刺して血だらけで倒れ、ある人は棚の下敷きになり倒れている。・・・そんな中で、私と目の前のこの男の人だけが、ぽつんと立ち尽くしている。

私が被らなかったのは、この人が盾になってくれていたからだった。だけど、それにしたって、こんなにも無傷で、居られるもの、なの?私は、私のすぐ近くにいた先生ですら床に倒れ伏しているのに、この男の人が硝子側に立ってくれていただけで、掠り傷一つ、ついてない。それに、目の前の男の人もまた、無傷、だったのだ。

「だから危ないって言ったのに。」

ぽつり。零されたその声はまるで無機質で。けれどその顔が僅かに歪んでいる事に気付いてしまった。けれどその表情は一瞬にして消えると、彼はニコリ。まるで私を安心させるかのように、何でもない事のように笑って見せたのだ。そうしてさっき動かしかけていた右手を私に差し出して、言った。「こっちに。」

言われた刹那。強い不安が、襲った。痛みを感じない程の、だけど強い力で腕を掴まれて、振り払おうかと腕が引き攣った。だけどそれは結局動かなくて、それどころか返って強く引っ張られた。それにたたらを踏んでよろめいた私の肩を抱くようにして歩きだそうとした私達を止めたのは、先生だった。「さな、だッ・・・なにを、した・・!?」

「ッ、・・ど、して・・・お前達は、・・ぶ、じ・・・なんだっ・・・?!!」
「、ひッ」
「行きましょう。」

ぬるり。べっとりと血の付いた先生の手が私の左足を強く掴んで、けれどその手が震えている振動が足首から太もも、腹、胸、頭へと這いあがってくるような気がした。そして、ゾッとする寒気も一緒に。そんな私の肩を引いて、その足から遠ざけるように進んだ、彼。じわり、滲んだ涙はけれど溢れる事はなかった。だけど、それ以上に溢れ出る不安に、恐怖に、打ち砕かれそうだ。






             ガッシャァアアアン!!
不意に聞こえたその音に、ハッと顔を上げた。先程のクラスから持って来たの鞄を手に、職員室に向かっている途中で聞こえてきた音に足を止める。まるで何か・・・そう、例えば硝子が割れるような。それも1枚や2枚なんて数ではなく、大量の硝子が、全部吹き飛んだ、かのような、音。そしてその直後に聞こえてきた悲鳴。それに何かと混乱をきたした頭で「、この音・・・は、?」と呟いて。だが、ある思考に達した所でザッと冷え切った。今の音は、職員室の方から、聞こえなかっただろうか。

だが、職員室には今、が。

っ」それは叫びにも似た、声。気付いた時には足が廊下を叩き付けるように蹴り、駆けだしていた。
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