がらくたの海
広い広い、ただただ漆黒の闇ばかりの水面。その水面に、酷く透き通った音色を立てて滴が一滴、その波紋を生んだ。けれどようやく広がった波紋は、その水面にぽつんと不自然に浮かんだ一石の岩によって途絶えた。その上に、猿ような男の人が乗っている。いや、どちらかというと、人に近い、猿の方があっているかもしれない。その猿はまるで鬼火のような薄蒼い燐光を放つ毛並みをもって、ただ、じっとそこにいた。嘲るように、酷く愉快そうに歯ぐきを剥き出しにして笑って、私の事を見つめている。見つめて、きゃらきゃらと笑って私の後ろを指差した。「ごらん、セキシ。」

その声に、横に向けていた視線を弾かれたように正面に戻した。ただ闇ばかりだったそこに、紅い明かりが灯った。それは踊るように揺れて、その光に、無数の影が見えた。そこにいたのは、無数の獣。獣も物語でしか見た事の名様な容貌をして、まるで獲物を狩る間際のような殺意を剥き出しに爪や牙を晒している。猿や、鼠や、鳥に似て、非なる。それよりもっと獰猛で大きい、肉食獣のような。そして、その肉食獣である化け物の前にいるのは、私だった。あの化け物の餌、は、私だった。

それが分かっているのに、私はいつも(・・・)動けないでいる。
アレが来たら、殺されてしまう。それが分かるのに、何も出来ないで、ただ目を見開いている事しか出来ない。きっと八つ裂きにされて、食べられてしまうんだって分かってるのに。でも、たとえ動けたとしても、逃げる場所も無いし、戦う方法も無い。そうしている間に、距離は三百メートル程に縮まっていた。耳元で、「ほら。もう、あんなに近い。」と。猿が囁いた。









ガバッ!と勢い良く飛び起きた。喉は引き攣って悲鳴も出なかったけど、ひたり。額を伝った汗を拭って、乱れた息を深呼吸して何とか整えようと酸素を取り込んでから「・・・また、近くなった」と呟いた声は、殆ど無意識で音になって空気に溶けた。それにハッとして、被りを振る。「ちがう、」あれは、夢。ただの、夢だわ。例えこの夢が、ずっと変わらず1月の間続く夢だとしても、それでも、ただの夢に決まってる。ぐ、と拳を握って、ケータイに表示された時間を見れば、まだ普段起きる時間よりも早い時間だった。

・・・この夢を見始めたのは、1月くらい前だった。

初めは只の闇だった。静かに高く虚ろに水滴の落ちる音がして、遠くに何かの声のような音が聞こえて、そこに私が立っていた。だけど、その時も身動きは出来なかった。それから日を追うごとに、徐々に夢は変化して行った。その夢を見始めて3日ほど経った頃に暗闇の中に紅い光が現れて、声のように感じていたそれが笑い声なのだと分かった。そしてある日あの猿が現れて、その声の主があの猿だと気付いた時に、明るい光が徐々に増え、近付いて来る事を知った。そして、その明かりの方から、何か、怖い物が来る事も。

闇の中に光がある。ただそれだけの夢に悲鳴を上げて飛び起きて、それを5日ほど続けた頃に影が見えた。最初は赤い光の中に浮かんだシミのように見えたそれが、数日後には何かの群れだと分かって、それが異形の獣だと分かるまでに更に数日が経った。・・・そして、と。思って、私は数年前の誕生日にお兄ちゃんから貰った可愛くデフォルメされた虎のぬいぐるみを抱きしめた。

         もう、あんなに近い。
ただ闇しか無かったあの空間の中で、あの獣の群れはひと月をかけて、私の元へ駆け抜けて来た。きっと、明日か、明後日には私の傍にまで来てしまう。そうしたら、・・・(そうしたら?)自分の思考に被りを振った。でも、考えずにはいられなかった。(そうしたら、私はどうなっちゃうんだろう。)違う、あれは夢だった。「・・・夢、だよ。」
滲んだ涙をぐ、と拭って。言い聞かせるように呟いた声は、信じられない位に力なく情けないものだった。



制服に着替えてからリビングに向かって、台所で食器を洗っていたお母さんに「・・・おはよう。」と小さく声をかければ、お母さんは私の方にチラリと一瞥をくれてからまた手の動きを再開させた。「おはよう。最近早いのね。」と、かけられた声に曖昧に笑ってから、テーブルに並べられたご飯に手を合わせて「いただきます」とお箸を取った。・・・そう言えば最近、皆で朝ごはん食べなくなったなあなんて、ぼんやり思う。お父さんは早くに仕事に行っちゃうし、お兄ちゃんも朝練があるからって先に食べて行くし、・・・お母さんは、よく分からないけど。・・・と、

「ねぇ、。また赤くなったんじゃない?」
「、」

お味噌汁に口を付けていた所で、不意に近くから聞こえた声に手の動きを一瞬止めた。そして、またか、と思った心を内心に留めて、だけど黙ってテーブルを挟んで向かい側に立つお母さんの顔を見上げた。その顔は厳しくて、直ぐに私は視線を下に戻してご飯を食べるペースを早くした。「ちょっとだけ染めてみたら?」・・・お母さんが言ってるのは、髪の事だ。

私の髪は、生まれつき赤かった。元々色が薄い上に、日に焼けてもプールに入っても直ぐに色が抜けてしまった。伸ばせば毛先の色が抜けて、本当に脱色したような色になってしまう。前から言い顔をしなかった両親も、私が高校に入学を決める事は輪をかけて煩くなった。・・・それに、確かに実際、この髪は徐々に赤みを増していた。

「でなきゃ、もっと短く切るとか。」

答える事はしなかった。だって、どうしようもないもの。これが、自分で染めた髪ならまだ、いい。だけど、自然な状態でこれなんだもの。急いで掻き込んだご飯に「ごちそうさま」と言ってから、早足に食器を流しに運んだ。そうして無言を貫いていた私に、お母さんは険しい顔つきで溜息をついて「誰に似たのかしら・・・」と呟いた。その言葉に、指先が震えた。「この間、先生にも聞かれたわよ」私の髪は、両親の色じゃない。「本当に生まれつきなんですか、って。だから染めてしまいなさいって言ってるのに」遡って行った親族の中にも、この髪の色の人はいない。

「・・・染めるのは、禁止されてるから。」
「だったらうんと短く切れば?そうしたら少しは目立たなくなるわよ」

そう言うお母さんの声は、冷たい。・・・お兄ちゃんに向けるのとは、全然違う声。「女の子は清楚なのが一番いいのよ。」とか「目立たず、大人しくしてるのが良いの。」とか。これの考え方を、古めかしいって何度反論しただろう。確かに私の髪は周りから確実に浮いてるけど、だからってこれはやり過ぎだ、って。何度言おうと思っただろう。面と向かって反論した事はないけど、スカートの丈を長くしろ、パンツなんて履くな、髪は黒。他にも色々、どうでもいい細かい事を煩く言われるのは正直、煩わしい。それに、

「わざわざ目立つよう、派手な格好をしてるんじゃないか、なんて疑われるのは恥ずかしい事よ。貴方の人間性まで疑われてる、って事なんだから。」どうして何もしてないのに。わざと派手な格好をしてるわけでも、髪を染めてこの色にしたわけでもないのに、どうしてこんな事を言われなきゃいけないんだろう。口に出して言った事はないけど、ずっと思って来ていた事だった。どうして、「それに、」生まれもっている物を、恥ずかしいって思わないといけないんだろう。

「貴方がそうだと、幸ちゃんまで悪く言われるかもしれないのよ

その言葉に、指先が震えた。「その髪を見て不良だと思う人もいると思うの。」それを無理矢理握り込んで、まだ家を出るには随分早い時間だけど、鞄を掴んで玄関に向かった。あぁ、もう。嫌だなあ。「遊んでる、って思われるのもいやでしょ。」嫌なのはお母さん達の方じゃない。「お金を上げるから、帰りに切っていらっしゃい。」そんなに私は、恥ずかしい子供なの。「、聞いてるの?」

「・・・いってきます。」

聞いてるよ。聞こえてるよ。だってお母さんとお父さんの言葉はこんなに、私の胸を突き刺す。昔は涙さえ浮かべたこの言葉達。今ではもう慣れ過ぎて、うんざりするしかないけど。それでもずっとこの髪を変えないのは、私の最後の足掻きだった。
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