ほどけた糸はなにいろだったか
なに、これ。
目が覚めて、最初に思った事がそれだった。

数時間前までは、飲み会をしてた。会社の先輩が寿退社をするから、その送別会。会社の近くにある居酒屋で、3時間。のんびり飲んで、食べて、喋って、写真を撮って。花束を渡して二次会でカラオケに行って、深夜を回って、明日も会社だからって解散して、そうして帰ってる途中。

チカチカと煩い程眩しく点滅する、赤い光。何台にもそれが連なって、空は明るいのに、それでも眩しいくらい。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい?痛い所はないかな?」

はく、と。聞かれた言葉にこたえようとした口は、だけど音を出す事なく震えただけだった。だから代りにぎこちなく首を横に振れば、「もう大丈夫だよ」と言って、りんごジュースの入った缶を手渡された。なにが、大丈夫なんだろう。これのどこが、大丈夫なんだろう。

目の前で親切にもふたを開けて貰ったそのジュースを、こくり。飲みこんだジュースは甘いはずなのに、どうしてか酷く苦いようにも、酸っぱいようにも感じた。だけど喉に通せば、喉が水分を強く求めていた事を知って、こくり、こくり、と舐めるようにそれを飲む。飲みながら、缶を両手で持つ自分の手を、みる。

紅葉みたいな手、というよりは、もみじまんじゅうみたいな、手だなあ。場違いにも、そんなどうでもいいことを考える。きっと、多分これは、逃避だったけど。小さくて、ふくふくと柔らかそう。どう見たって、成人女性の手じゃ、ない。

そんな私に、今度はさっきとは違う若い女の人が声をかけてきた。痛い所はない?ぶつけた所はないかな?身体、ちょっと見させてね。そう言って私の身体に怪我がないかを確認しながら、ぼんやりと座り込む私の事を安心させるようにゆっくりと、その女性が言う。

「お嬢ちゃん、お名前はなんていうのかな?」

聞かれた言葉に、数秒詰る。詰って、だけど小さい声で、「、」と伝えた。その声は自分でも情けなくなるほどに小さく震えて、自信の無い音になってしまったけど。ふらり。言葉を零した後で、周りの光景を、もう一度。泣きだしたい気持ちで、見た。

夜だった空は雲一つない青空に。触ってもいないのに宙に浮く車。ホースも無いのに現れる水。素手で車を持ち上げて運ぶ人。羽が生えて空を飛ぶ人。怪物みたいな姿をしたひと。

異常。

恐ろしい光景は、だけど何の現実味も無い。まるで映画でも見ているような光景が、そこにはあった。それを振り払うように。この嘘みたいな場所の中で、それだけは、だけどはっきりと、今度こそ。今度こそ間違いのない温度で、告げる。

。」

私の名前、これでちゃんと、あってるよね・・・?
お願いだから、あっていて。

そんな願いと共に、私は、この嘘みたいな世界で、本当の筈の名前を口にした。
事故のショックによる記憶障害。
お医者さんに言われた言葉に思わず返した、はぁ、そうですか。という言葉は、あまりに連れなく他人事みたいに響いたけど、だけどもう、どうしようもなかった。

ふと気が付いたら、事故現場。私と、私の家族だったらしい人達の。

3人家族で、父と母、その一人娘が私だった。らしい。記憶がないから、らしいとしか、言えないけど。その父と母はその事故で亡くなってしまって、私はまるでドラマでも見てるみたいな非現実にぼんやりしてた。そんな中で病院に運ばれて、診察をして貰って。そこで出された結論が、記憶障害。私は全く記憶を失くしたって意識はないけど、でも、仕方ない事だとも思う。私は5歳で、だけどあの二人の元に生まれてから昨日事故に遭うまでの5年間の記憶が一切ない。だからそういう設定に、なった。

だから本当は5年間をちゃんとこの世界で生きていたのに、事故のショックで過去の記憶・・・この、世界に来る前の前世か何かの記憶が蘇ったっていうファンタジーなのか。それとも、この家族の事故の瞬間に、何でか私がこの子供の身体に入っちゃったって言うファンタジーなのか。はたまた別のファンタジーなのか。いずれにせよあまりにも現実味が無くて、そしてそれはあんまりにもあんまりだっていう話だった。

生きていく事は、出来る。

幸い親族だっていう人がいて、暫くはその人たちに面倒を見て貰えることになった。ただその人達は親族だっていうのが申し訳ないくらいの遠い親戚で、気が引けるけど。それに両親は沢山貯金をしてくれていたし、生命保険にもいくつか入ってたみたいだから、お金はある。今回の事故も100%相手の過失だから、そっちからもお金を取れる。贅沢をしなきゃ普通に成人まで生きていくのに困らない。成人になってしまえば、後は自分で稼げばいい。私は突然此処に降って沸いたわけじゃなくて、此処で生まれて、生きてきたみたいだから。だからちゃんと、戸籍だって、ある。

ちゃんと・・・ちゃんと、まっとうに生きていければ、どうとでもなる。この世界はだって、私のいた場所とは違うけど、言葉が通じる。戸籍があって、私の知ってる常識も似てる。だから大丈夫、大丈夫。

自分に言い聞かせるように拳を握って、畳の上。二つ横並びに並ぶそれと、線香の香りに一度、瞬いた。



綺麗にしてくれた。
とても優しそうな顔に見えるその人たちは、この世界の、私の両親だった。当然に、この姿になる前の場所にいた、私の両親とは似ても似つかない、別の人。私の事をきっと大切にしてくれて、私の事を守ってくれた、ひとたち。だけど私はこの人たちの事を知らなくて、それが申し訳なくて、うつむく事しか出来なかった。

両親は、どんな気持ちで私を助けてくれたんだろう。

飲酒運転、らしい。酔って、寝ぼけた大型トラックの運転手が、青信号で交差点を進んだ両親の車に、横から思いっきり突っ込んだ。お父さんは、即死。お母さんは、その時咄嗟に私を庇うように抱きしめてくれたらしい。だから私は軽傷で済んだっておまわりさんが言ってた。命がけで守った娘が、自分の事を全然覚えてないどころか、他人だって思ってるなんて。それを知ったら、どんな気持ちになるだろう。命がけで守ってくれたんだから、絶対に私、愛されてたのに。だから、


「・・・ごめんなさい。たすけてくれて、ありがとう。」


燃える、父と母だった人。その人達に言える言葉は、それだけだった。
名前も顔も知らなかった、きっと優しい人達。亡くなった後で、ようやくこういう人たちだったんだと知った人達。カラン、カラン。まだ小さいからと、大人の人に抱き上げて貰って、一番大きなお骨を、骨壺へ。でもう出会う事もない、話した記憶もない人達の、骨。

写真の中でだけ笑うその人達の生前の顔を見つめながら、生きなくちゃ、と。ただそれだけを、胸に抱いた



引越初日だったって聞いた。
その日から、新しい土地で、新しい一軒家に住む予定だった。そう聞いた。そんな日に、その新しい家に向かっている最中に起こった事故なんだって、聞いた。

私を引き取ってくれる親族の人は、偶然にもその新しい家の近くに住んでいたらしい。結構なお歳しの、老夫婦。子宝に恵まれなかったと言うそのご夫婦は、これから宜しくねと、とても穏やかに笑ってくれた。そんなご夫婦・・・おじいちゃんとおばあちゃんにお世話になりながら、私は新しい家とご夫婦の家を往復する生活を送る事にした。

本当は2人の家にずっといるのがいい筈なのに、2人はだってここがちゃんのお家だもの、と。これから新居になる筈だった、両親の家で出来るだけ生活をしようと言ってくれた。定年を過ぎて年金で生活をしているご夫婦には、それは肉体的な負担が大きいんじゃないか。もっと子供らしい言葉でやんわり言った言葉は、笑って優しく押しのけられた。

葬儀の準備とか、保険金の受取先とか、相続とか、色々。いろいろやる事も、ある。当然そう言った手続きを主に行ってくれたのも、おじいちゃんとおばあちゃんだったけど。だからやらなきゃけない事は沢山あったけど、時間だってたくさんあった。ただでさえ私は今、幼稚園にも保育園にも通ってない。だから沢山、考える時間があった。


考える事が、沢山あった。
此処は何処なんだろう、とか。私は誰なんだろう、とか。私、前の世界で死んじゃったのかな、とか。もう帰れないのかな、とか。お父さんとお母さんにはもう会えないのかな、とか。これからどうしようかな、とか。私、どうしたいんだろう、とか。

戸惑う事も、沢山ある。分からない事も、受け入れられないこと、受け入れたくないことも沢山ある。

考えても仕方のない事ばっかり、色々。だけど悩んだって嘆いたって、死んじゃうっていう選択肢がないなら、頑張るしかない。頑張って生きる努力をするしかない。でも、だって、どうやって。こんな世界に独りで。それはとても、寂しい事に思えた。






「なぁ、お前引っ越してきたやつだろ?」

父と母の遺骨を持ち帰って数日が経った日。
お遣いに行って来てくれる?そう言ってお金とメモを渡してくれたおばあちゃんのそれは、きっと何処で何をしていいか分からなくて、家でじっとしていることが多い私にくれた、気遣いだった。

そんなおばあちゃんからのお遣いの帰り道。声をかけられたのは、丁度近所の公園を横切った頃だった。多分、公園の中で遊んでたんだと思う。出入り口を横切った私に気付いたその男の子は、たたっと私にかけ寄ると、大きい目をぱちりと瞬いて少しだけ首をかしげて見せた。

とても綺麗な顔の男の子だった。つんと立った色素の薄い髪の毛がふわふわと風になびいて、ほっぺたはふくふくと柔らかそうで、猫みたいに吊り上った眼はくりくりと大きい。大きくなったらかっこよくなりそうな子だなあ、って。子供のころから分かるタイプの顔の子だ。

その男の子は私の右手に握られた、野菜とかお肉とかの入ったスーパーの袋を見ると、「持ってやるよ」とさらりと袋をさらって行った。きっと、お母さんとお買い物に行く時とかもこうやってお手伝いをしてる子なんだろうな。そうして「一緒に帰ろうぜ!」と歩き出した男の子に、子供はやっぱり自由だなあと少し感心した。だけど結局私も帰るところだったからうんと頷いて、男の子の隣を小さい歩幅でてくてく歩く。

「なぁ、お前いつも何やってんだ?」

多分、隣の家の男の子。ちらっとだけど、見た覚えがある。記憶に強く残ってるのは、この子の手を引くお母さんが、この子そっくりの顔だちをしていたから。その子が疑問に思ってるのは多分、春休みも終わったこの時期に、私が幼稚園にも保育園にも行ってない事を知ってるからだと思う。そんなその子の不思議そうな瞳顔に、にこっと笑みを作る。

「おじいちゃんとおばあちゃんのお手伝い。お掃除したり、荷物を片付けたり。」
「ふぅん。それって楽しいのか?」
「ううん、ふつうだよ。」
「ふつーってなんだよ、じゃあなんで毎日やるんだ?」

それはもう不思議そうに聞いたこの子の言葉に、答えが詰った。ぱちりと瞬きをしてどう答えたものかなあ、と、考える。馬鹿正直に、引越の荷物を片付けてくれる人がもういなくなったからだよ、って答えるのも、なあ。

そんな事を思いなが、なんて答えようかとらううんと首を捻る私に、やっぱりこの子は不思議そうな顔のまま、こてりと小首を傾げる。

「楽しくない事毎日やるの、つまんなくねーの?」

・・・子供って、吃驚するくらいストレートに人の痛い所突いてくるなあ。
本来事故のあった日に、主に両親がするはずだった荷解きと整理。おじいちゃんとおばあちゃんも手伝ってはくれるけど、二人亡き今、必要な物と不要なものを分ける作業だけでもひと苦労だった。当然引越前から持ってきた荷物は二人にとっては必要な物だったんだろうけど、今となっては、っていう物が、沢山ある。だけどその荷物は私にとっては知らない人の物も同然で、そういう人の大切な荷物を物色するのは、気が引けた。だから正直言うと、本当はとっても、やりたくない。でも、

「楽しくなくても、やらなきゃいけない事はあるよ。君も、楽しくなくても毎日歯をみがくでしょ?」
「きみじゃねーよ、かつき。」
「かつきくん。」
「おう!」

名前を呼べば、それはもう嬉しそうに笑った。ちっちゃい子のこういう所、やっぱり可愛いなあ。こういう話があっという間に終わるって別の話になるのも、子供の特徴だよなあ。にこにこと嬉しそうな男の子を見つめながら可愛いなあなんて思っていれば、やっぱりこの子はズバッと大人なら聞きにくい事を聞いてくる。

「お前、全然外で遊んだりしねーよな。そんなにお前の家汚ねーのか?」
「あはは、本当ストレート。」
「?俺、なんか面白い事言ったか?」

不思議そうに首を傾げたかつきくんに「ううん」と首を振れば、やっぱりかつきくんは不思議そうに「そっか?」って瞬いた。そんなかつきくんに、汚くないけど片付ける物が沢山あるのって答えれば、それって汚いって事じゃねえの?って返されちゃったから、やっぱりあははって笑う。

そんな私を見たかつきくんはやっぱり不思議そうにしてから、ちょっとだけ考えるみたいな仕草をして口を開いた。

「お前って、これからもそれやんのか?」
「ううん、もうそろそろやらなくなるよ。」
「じゃぁ、それやってた時間暇になんだろ。」

言われた言葉に「そうだねえ」って言いながら、暇・・・。暇、に、なるかな。なったら、いやだな。と、そんな事を考えた。考える事も考えないといけない事も沢山あるけど、空白の時間が出来る度に、どうしたって考えざるを得なかった。その時間が、いつもしんどかった。だから片付けでもお遣いでも、掃除でも洗濯でも、何でもいいからやっていたかった。

今は落ち着くまでってお休みしてる幼稚園も、本当はすぐにでも行きたかった。本当はこの気持ちのまま子供と遊ぶのはしんどいけど、家でおじいちゃんとおばあちゃんに気を遣わせ続けるのもしんどかった。どんなに子供の姿をしてたって、やっぱり私の精神は大人だから。そう思って、帰ったらやっぱりもう幼稚園に行きたいっておばあちゃん達に伝えてみようと決めた時。不意に勝己くんが立ち止った。

「やる事ないならさ、」

立ち止まって、そうしてくるっと私の方を振り返った勝己くんの顔は、きらきらと輝く、楽しい事しか知らないって顔。子供特有の、無邪気な顔をしてた。その顔でニッと笑ったかつきくんは、荷物を持っているのとは逆の手を、私の前にずいと差し出して、言った。

「俺と一緒にあそぼーぜ!」

言われた言葉に、ぱちり。瞬いた。
差し出された手は、ただの子供のものだった。小さくて、柔らかそうで、大変な事を何も知らない。真っ直ぐな好意だけが詰められた、その、手。それに視線を向ければ、自然に私もまた、手が、伸びた。

とてもじゃないけど、子供と遊べるような気持ちじゃなかった。気は紛れるかもしれないけど、自分の兄弟って言うならまだしも、他所の子供と遊ぶのって、だってとっても、疲れそうだから。そう頭の片隅では思ってた筈なのに、どうしてか差し出された手に自分の手を重ねちゃった私の手を、その子は強く握り返した。やわらかくてあたたかな手が、この元気なこの印象とは真逆に私の手をぎゅっと握ると、優しく引いた。

男の子は、約束な。って、そう言って笑った。笑って、歩いた。何でもない事だった。この子だって別に意識をしたわけじゃない、何気ない言葉だった。だけど、だけど。

もうどこにも行けない。どこに行って、何をすればいいか分からない。何をしたいのかも、何も。そんな私に与えられた小さな約束事は、例えそれが小さい子供の戯れでも、ほんのささやかに、私の足元を支えてくれた。だから、かなあ。

私の前を歩いて、手を引っ張る。その子のぬくもりに、どうしてか、ぽたり。此処に来て初めて、涙が落ちた。
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