零れ落ちるほどの贅沢
はっ、はぁっ、はっ。酸素を求める身体に必死に空気を吸い込んで酸素を送りながら、それでもまだ足りないと訴えるそれを無理矢理抑え込んで必死に足を動かした。滋さんの友人がいると言う、あの家から電車で数時間ゆられて辿り着いた島根県の奥地。俺達が泊まっている宿の一室で。ふと朝から何処かへ出掛けたニャンコ先生が夕方になっても戻ってきていない事に、滋さんに断ってちょっと探しに行くつもりで近くの森に入る事僅か3分程。突然なんだかヤバそうな妖に襲われて今に至る。なんで俺は何処ででも妖に襲われるんだろうか。本当に、ついていない。

なんて。余所事を考えていたのが不味かったんだろうか。何かに足を取られて転んだ俺は慌てて立ち上がろうとしたけど、全身にかかったその巨大な妖の陰にゾッとした。

「っ、うわぁあああああ!!
絶叫。上げた叫び声を外に出すと同時に、腕で顔を庇うように覆って目を固く瞑った。ヤバい、本当に死んだかもしれない。そんな事を何処か冷静な部分で思った、刹那。俺に襲いかかって来た妖の声が、急にブツリと切れた。それはもう、唐突に。まるで、突然消えてしまったかのように。それに何かと思って腕を退け、固く瞑っていた目を開けると、

「きみ、大丈夫?」

ふわり。まるでシャボン玉が浮かぶようなやわらかさでかけられた声に目を開ければ、そこには女の子がいた。高校生・・・だと思う。年上には見えないけど、でも、雰囲気はとても落ち着いていて綺麗なひとだ。・・・見て、でも、と思った。あれ?初めて会ったと思ったけど、・・・何処かで、見た事があるような・・・?

そこまで考えて、だけどいや、やっぱり会った事はなさそうだと自己完結させた。それより、多分、・・・いや。間違いなく、さっきの妖はこの人が祓ってくれたんだろう。その事実に驚きながら、だけど「立てる?」と首を傾げて問われた事に「え?」と漏らしてから。だけど直ぐに慌てて尻持ちを付いていた身体を起こした。「・・えっと、ありがとう。」

「さっきの妖は・・・君が?」

そうなんだろうなとは思いつつ、だけど未だに信じられない心地でいる為問うた言葉に、その子はにこっと笑む事で肯定した。「殺したりはしていないよ。ただちょっと、お家に帰ってもらっただけだから」と。呆気なく言われた事実にやはり驚いて目を見開いた俺に、彼女はささやかな笑みを携えて俺を見上げた。

「斑くんはどうしたの?」
「えっ?ニャンコ先生を知ってるのか?」
「ふっ、」
「へ?」
「にゃ、にゃんこせんせい?ふっ、あははっ」

突然見ず知らずの子の口から紡がれた名前に驚いて声を上げた俺に、彼女がとても可笑しそうに笑ったものだから、なんだかとても気恥かしいような心地になった。・・・でも、俺を見てニャンコ先生の名前を出したって事は、この子は俺の事を知っているんだろうか。思った疑問を口に出そうとして、だけど、どうしてかそれは声として喉を通ってくる事はなかった。どうしてか、聞く必要がないように思えた。そんな確認みたいな事をしなくても、この人は大丈夫なんじゃないだろうかと。・・・他の人に聞かれれば、なんて無防備な、と。叱られてしまうかもしれないけど。そう、確信があったのだ。それを思ってから、そうだ、と思い至る。「あのっ」

「ニャンコ・・・あぁいや、斑、を、見なかったかい?探しているんだ。」
「ふふっ、ニャンコ先生でいいよ。うん、そっちの方が可愛いね。」

くすくす。可愛らしく笑う子だな、と。ぼんやりとそんな事を思ってしまったこともまた俺の羞恥を煽った。そんな俺の様子に益々楽しそうに、可笑しそうに彼女は笑った。すると彼女はそのままの表情で「見ていないよ」と答えて、そうしてから俺にとっては意外な言葉を続けた。

「でも私もこの山に用事があるの。よかったら一緒に探してあげるよ。」
「えっ?い、いえそんな・・・悪いですし。」
「いいよ。此処は危ないからね。それに、きっと1人で登るよりも2人で登る方が楽しいもの。」

だから、ね。一緒に行こうよ、と。
そう笑んだ彼女に、無意識の内に頷いてしまった。
「普段は、あんなに危ない妖はこの辺りにはいないんだけれどね。」と。先程から初対面なのに全然不快感を感じられない会話の最中に言われた言葉に瞬いて「え、そうなのか?」と問えば、彼女は「うん」と頷いて。けれど「でも、今日は神迎祭だから。」と。そう続けられた「神迎祭?」という単語に首を傾げる。

「そう。出雲で、10月が神在月って呼ばれるのは知っている?」
「えぇ。確か・・・八百万の神々が出雲に集まるから、他の地方では神無月とか。」
「そう。今日は、旧暦の10月10日だから。出雲ではね、ちょうどこの時期に神様を迎えて、1週間後に送り出すの。」

その言葉を聞いて、あぁ、だからか・・・と。あの賑わいを思い出して納得した。そして同時に、折角小旅行みたいなものなのに、どうせなら少しくらい調べてくれば良かったな。そんな小さな後悔をしている俺の前で、彼女はゆったりとした速度で、けれどさくさくと地面を踏み締めて歩いている。

「それに、この森は普通のひとには見えない祠があるの。むかーしの強いひとが、神様たちに作った祠。だからこの森の・・・特にこの辺りには普通のひとは入れないようになっているんだけどね。君は、力を持っているから入れたんだね。」

そんな彼女の斜め後ろをついて歩きながら、彼女の言葉を聞く。「だからこの辺りには他の場所よりも強い神様や妖が沢山いるの。だから、貴方みたいな力の強い子が1人でふらふらしていると危ないよ。彼等にも沢山いるからね。ひとが嫌いな子達も沢山いる。例え好きでも、力が強いから、遊んでいるつもりでひとを傷付けてしまう子もいるわ。」

この辺りに、随分詳しいんだな。それに、妖にも。と。そう問えば、「まあね」と、何処か誇らしそうに笑んだ。そんな彼女の様子に、はた、と思う。何だか・・・名取さん達とは、何処となく雰囲気が似ているなと。・・・でも、少し違う気もするけど。だけど、こんなに簡単に初対面の俺に妖の話をする彼女に問うた。

「君は・・・妖祓い、なのか?」
「違うよ。私はどちらかというと、人ならざるもの達とは共存するものだからね。」
「共存?」
「そう。力を貸してもらったり、借りたりするの。大切なお友達も、沢山いる。」

それは、今まで出会ったどんな見える人とも、違う生き方だった。いや、確かに妖の力を借りて仕事をする人には会って来たけれど、悪い意味ではなく、それは何処か・・・一方通行のように見えて。けれど、もしそれが本当なら、それはきっと、凄い事なのだと思う。それに、少し、羨ましい。妖を、友人と呼べる事が。
俺には無理だった事を、彼女は当り前のように享受している。それはとても前向きで、そして、優しい事に思えた。「・・・そうか、」

「それは、羨ましいな。」

心から、そう思った。そして、やはり俺の言葉に嬉しそうに笑んだ彼女に、また、思うのだ。羨ましいな、と。
Date::111105 Window Close ...?