想いを耳に残す
風と、そのざわめきに揺れる木々の音しか聞こえない、月明かりだけが照らす桜の下。人間も、霊も、妖怪も。俺達の他には誰もいないこの桜に覆われるようにしてある丘の中。親父の友人で、俺の友人でもある、まだ成人も迎えていない人間の女。さらさらと揺れる黒髪を靡かせて、紅い杯を揺らして同じ酒を酌み交わしながら、なんとはなしに俺が囁いた。「なあ、」

「名前が大事な物だって言うなら、俺の子が生まれたら、その時は・・・アンタが名前を付けてくれないかい。」
「?私?大事な子供の名前でしょう?鯉伴くんとお嫁さんで決めなよ。私は、」
「俺は、アンタから貰いたいんだ。」

本当に、なんて優しい声で、優しく語りかけるように話す子だろうかと。その声を聞きながら、だけどそれを遮った。彼女の持つ盃が空になったのを見て、盆に乗る銚子を傾けてそれを満たした。風が流れる度に揺れるそれが、月の光を満たして静かに照る。そっと銚子を戻して自分の手にある盃を煽って、ただただ明るい満月を横目で見てから。酷く落ち着いた心地で隣に座る少女に、普段は閉じている片目も開けて真っ直ぐに笑んだ。

「大事な俺の子供の、大事な名前だ。お前から貰えるなら、それ以上のもんはねぇ。」

言って、ウインクでもするようにまた右目を閉じた。そんな俺に少女はぱちぱちと大きい眼を瞬かせたが、本当に、心から、そう思えるのだ。・・・親父もきっと、同じような気持ちだったんだろう。もう数えるのも馬鹿らしくなる程昔、『鯉伴』って名前にどういう意味があるのか問うた俺に、親父は大事な人から貰った名前なのだと、その意味と共に教えてくれた。大事な、この、目の前にいる少女から貰った名前なのだと。

まだ生まれてすらいない、所か相手すらいない俺に、それでも真面目にこの話を聞いてくれる。それがどうしようもない程に、嬉しいのだ。穏やかな気持ちで口端が自然に弧を描く。まだ生まれてもいない、相手もいない。それでも、その時にこの少女がいるかは分からない。人の命は儚く、短い。
だからこそ、大切な事なら大切な事程、早く伝えなければと思う。それは焦燥とが違うが、それでも。決定的に違う生き物だからこそ、決定的に違う最果てにある寿命というものがあるからこそ、今、渇望した。それに少女は静かに目を細めた。「・・・そうだね、」

「じゃぁ、次合う時までに考えておくよ。大事なものだものね。ゆっくり考えさせてもらうね。」

月明かりに照らされた白い頬を、ほんのささやかに桃色に染めた少女は、酒には恐ろしく強い。だからこの色はきっと、照れとか、そしてひょっとしたら嬉しさの為なのかもしれない。コイツがこんなに嬉しそうに笑んでいるから、きっと、そうなんだろう。それを思えば、俺の方まで嬉しくなっちまう。「あぁ、」

「頼む、・・・。」ふわり。桜の花弁が盃に1枚、波紋を広げた。
「おとーさん!」と。俺の名前を呼ぶ声にハッと肩を揺らせば、そこにあるのは庭の枝垂れ桜。それにぱちぱちと瞬いて、あぁ夢かと気付いてしまえば、込み上げてくる切なさと愛おしさ。そういえば、随分長い時間が過ぎたんだな、と。アイツと別れてからもう何度と数えるのも途方もない程の季節が流れ、この桜を見上げた。

嘗て、共に闘った、誰より大切な友人。彼女は人間で、俺は妖怪だった。今ではもう、記憶でしか無い少女。その2つを隔てる時間が何より大きく、アイツ以外にも沢山の離別を経て、今の俺がいる。・・・そして、今の俺の前の前には、愛しい俺の息子がいる。ふ、と。俺を見上げるまだ幼い自分の息子に込み上げてくるものに破顔して、ふわふわと春の陽気に揺れる、俺とは似ても似つかない、母親似の髪を撫ぜた。

「おぉ、どーしたリクオ。」
「しゅくだい!僕の名前、どういう理由があるのかって。おかーさんがおとーさんに聞きなさいって。」

これは、また・・・と。また再び瞬いた。さっきの夢は、偶然かねえと眉を下げて笑えば、不思議そうに見上げる息子を隣に座らせて、枝垂れ桜を見上げる。桜の花弁がひらひらと揺れ舞って、右手を差し出せばそこに乗った薄桃色のそれに目を細めた。名前、か。俺が頼んで、そうして譲ってもらったそれが、今はこいつが抱きしめてくれている。それに無意味に「リクオ、」と名前を囁いて、それに「なに?」と瞬いた息子には答えず、目を伏せる。

「そうだなあ・・・色々意味はあるみたいだが、1番はいろんなひととの絆を繋いで欲しいから、らしい。」
「らしい?」
「あぁ、らしい。その名前は貰ったものなんだ。」
「?」

彼女が気恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに俺に伝えてくれた名前。俺の大切な子供の名前を、自分に考えさせてくれて嬉しいと。そうして伝えられた、名前。『ぬらり』ひょんの『クォ』ーターだから『リクオ』なんて、ほんとお茶目なダジャレ・・・いや、言葉遊びだが、それでもそこにある想いは確かなものだった。いろんなひと、とはつまり、妖怪と人、って事だと俺は思ってたが、それも含めてアイツは『いろんなひと』っていう表現をしたんだろうと、今なら分かる。
いつかきっと、会いに来ると言ってくれた。俺の生んだ、世界の中のたったひとりに。きっと優しい、俺達の血を引く、俺の子供に。

「お前の名前は、誰より綺麗で強い・・・そして誰より優しい女性(ひと)から貰ったもんなんだ。大事にしてくれ。」

今でも鮮明に思い返せる、あの、こころ。きっと忘れてしまったものも、多いのだろう。記憶は薄れてしまうだろう。心に浮かぶあの顔は、実は変化してしまったかもしれないけど。あの頃何度も耳に届いたあの静かな声は、実は別の物になってしまっているかもしれないけど。それでも、確かなものが、この胸に、記憶に、息付いている。これはどれ程、幸運な事だろうか。

「?おとーさん?」彼女が守ってくれたものたち。その最たるものが、俺を呼ぶ。その小さな命に微笑んで、何かと問えば眉が下げられた。そうして問われた「かなしいの?」とその言葉に、俺は今情けない顔をしているのだろうと知る。けれど、心は酷く穏やかだ。「・・・いや、」悲しくはない。辛くはない。別れは、穏やかではない。幸運では、ない。それでも、


「愛しいんだ。」


愛しい、俺の・・・大切な、友人。
その感情は家族に向けるものとも、恋人に向けるものとも違うものだったが、それでも。こんなに優しい感情を、俺は他に知らない。アンタは俺の友人で、家族で、恋人で。そんな、誰よりなにより大事だと思える人だった。俺も、親父も、リクオの事も救ってくれた。アンタと出会えて、俺の世界の全部が変わった。アンタはもう、何処を探してもいないんだろう、でも、

「待ってる。」

ともすれば溢れ出そうな程に満ち足りた、このただただふわり。とろけるような、空を浮かぶような優しいばかりの心。アンタから与えてもらった全ての物に、者に、ものに、ありったけの感謝と愛をこめてキスをしよう。この美しすぎる世界の下、何より大切な宝物を抱きながら、俺はようやくその名前を囁いた。
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